捉えるという受容、捉えるという能動
感受性、授受、享受、受容、一言として括るとすると「受ける」として括られるようだ。これが因数とでも言えるだろうか。
ただただ受容して、それまでのことは何もなくで良いのかという話でもないのだろうが、ただただ、受けることが捉えるという受容なのである。これはサルでもできる。
では、捉えるという能動、すなわち受容的能動とでも呼べることはどのようなことなのだろうか。このことをしっかりとやる(どうやってやる、捉えるというのは、実際にはその人に委ねられるべきだし委ねられて当然だが)ということが大事なのかもしれないと唐突に思った。
捉えるという受容、捉えるという能動