批判をする価値批判をされる価値
無知である我を知ることこそが知であると。
現代社会における批判は心なく、また、非常に軽率で論理性に欠けるものが多いのではないかと感じる。
日本人が批判に対するプロフェッションなのか。とも思う。
しかしながら批判されることは決して悪いことではないことである。
批判を意見であると同値にし、参考にし、受け入れる。可、不可といった評価的な感情をなくして受け入れるのである。ただその意見として取り入れることでさえもできないほどに軽率で不憫である。遺憾だ。
とでも言っておこう(本心ではないが)
批判する側というものは簡単である。相手が予期しないまたは自らが不適切であると思ったことがらに対して自らの意見を添えて批判するのである。相手の事情などを考えずに ということである。
いずれにも価値があって、
いずれにも考えがある。
そのいずれも””おさない””のである。
時間に依存しない一次元シュレディンガー方程式の解ぽいやつ
古典量子力学はおそらく、自分理解できる領域ではないし、専門にする気も正直さらさらないけど、面白い興味深い分野ではある。非常に恐縮ではあるが、自分の非常に僅少な知識を利用して、、(知見のある方アドバイスをお願いします。)pythonで時間に依存しない一時シュレディンガー方程式の解を求めようとはしたけど、何せPythonの知識自体が僅少なもんで・・・
結果bohrとRyのみですが少々それっぽい??のができたので乗せときます。パイソンもエラー出てますが・・・。
時間に依存しない一次元シュレディンガー方程式の解ぽいやつ
古典量子力学はおそらく、自分理解できる領域ではないし、専門にする気も正直さらさらないけど、面白い興味深い分野ではある。非常に恐縮ではあるが、自分の非常に僅少な知識を利用して、、(知見のある方アドバイスをお願いします。)pythonで時間に依存しない一時シュレディンガー方程式の解を求めようとはしたけど、何せPythonの知識自体が僅少なもんで・・・
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懐かしむ行為に悪気はあるのか。
「懐かしむ」という行為、このご時世では我々が経験したことのないことが毎日のように起こっている。無論、同じ日は来ないので毎日毎日新しいというとそこまだが。
私たちが日常だと思って過ごしてい日々は今やどこへ、二度と同じ日が返ってこないのだろうか。そんな不安を募らせる毎日ではある。もちろんこの我々が経験してきた日常とは思えない今の日常の中で新しいことや、今まで通り、我々が思う平然としたあの日常を思い出し、少しでもそれに近づくように努力する日々だ。
帰省、という我々が普通にしていた行為までをも制限をかけるとなると非常にまずいと思う。私自身この休みを利用して自自分の故郷を思い出し、「帰省」するつもりだったのである。しかしながら帰るという行為を間接的に禁止されているし、万一のことがあってはならないと今回の帰省は断念した。
前置きが長くなってしまったが私の故郷では、全国にも誇れるほど非常に大きなイベントが夏に開催される。あいにく私が故郷にいられる最後の時となった昨年も開催は中止となった。それを思い出しそのイベントで必ず流れる曲を聞いてみた。無性に帰りたくなった。何が何でも帰りたくなる。あの時のあの思い出を探しに。。。
自分は割と「過去を顧みず、未来へ進む」といったスタンスで様々なことを行ってきたが、今まさに過去を顧みている。これは悪いことだと思う時期もあったのだが、過去を顧みることで一時的に心が豊かになったり、ふと思い出し、笑顔になれることもあるのだ。帰る場所を求めて、決して過去を顧みることが悪いことじゃないんだな。と感じた。過去を顧みすぎている、のではなく、心持を上げるために、そのためだったら顧みてもいいと思う。過去を顧みることで反省を見つける、そのためだったらいい。とは思ったけど、そうじゃなく、いい思い出に浸ってみるこれでいろんなことを我慢できるのだな。とか。様々なことを感じた。
過去を顧みるのにも目的があり、未来を見つめるのにも目標や目的がある。人間、そのバランスで今という過去になるものを過ごし、次の過去を作りに未来に進んでいるんだなと少しばかり思ってみた。そんな一日でございました。
かえりたい。
捉えるという受容、捉えるという能動
感受性、授受、享受、受容、一言として括るとすると「受ける」として括られるようだ。これが因数とでも言えるだろうか。
ただただ受容して、それまでのことは何もなくで良いのかという話でもないのだろうが、ただただ、受けることが捉えるという受容なのである。これはサルでもできる。
では、捉えるという能動、すなわち受容的能動とでも呼べることはどのようなことなのだろうか。このことをしっかりとやる(どうやってやる、捉えるというのは、実際にはその人に委ねられるべきだし委ねられて当然だが)ということが大事なのかもしれないと唐突に思った。
捉えるという受容、捉えるという能動
私を私として存在させてゆくということ
辞書を自称する事象が自傷
自分の辞書と揶揄される事柄なんかあるもんかって言うけど実際に価値観の違いなんてのは顕著なわけで、これを「相対化しろ」だなんてポルツマン定数年早いと思っている。
自分の辞書の中には一般的に(ここで既に相対化)
・環境
・教養
が大きく左右されると思う。これはまぁ、そうだよねってなる人も多いだろう。
自称もこの2点が大きい。
じゃ、自傷は、って思ったっしょ、これも上記の最初の方が大きいんじゃないかなって個人的な主観に基づくけどね。
じゃ事象は。
これは基本どれにも左右はされてないかなって。
結論は相対化することだけがすべてじゃない。相対化しないで、生きれること、分かり合えることだってあるはず。何でもかんでも相対化しなくてもいんじゃないかな。
今だから思うこと、伝えることを怖がらないで。
今だから言えることだとか今ならって割り切れることって沢山ある訳だけど(その分過去の時点での反省、羞恥、後悔があるということを同時に知らしめられるわけでもあるが)、それらの事柄を言えること、言葉にできることにだって素晴らしさを見いだせるのでは無いか、と、あくまでも推測に過ぎない訳だが。
実際にあったことを今すぐ、過去、という時間の系列を別物として考えてみれば、それをそのままことばにして言うことはいとも簡単であるかのように錯覚するだろう。人によって聞いた時に背景に浮かぶ情景、描写は全く同じではないだろう。実際のところその人が言ったことが数人に伝わった時実際に経験がある人が多いだろうが、情報が上乗せされ、事実であることは確かだが関係ないものと結びついたり、全く異なる推測や意見が載せられて帰ってくる。それを遺憾だと感じた人も多いに違いない。
これだけではないが、踏まえて、果たして今だから言えることだといって振り返ることも、美化され、すなわち、関係ないものと結びついたり、全く当時とは違う意見、推測が上乗せされたものだろうか。そうではなくそのものをそっくりそのままだろうか。
こんな話がある。
恋人と別れた時、その写真は消さない方がいい。
写真を消すといい思い出が後悔として残り、それでさえも、美化されるから。
会いたいわ今すぐ会いたいわ。
先日並んでたらあった
にこにこしてた。あれーって手振ったら振り返してくれた。
そして、最後はおつかれじゃなくてバイバイって言えた。これで先輩後輩脱却!